当連盟について

歴史


日本身体障害者アーチェリー連盟 の歩み


【競技を通じての歴史】

わが国の身体障害者(以下、身障者)スポーツの振興に最も重要な役割を果たしたのが、1964年(昭和39年)の東京パラリンピックの開催であり、身障者がアーチェリーを行うことになった契機も同大会の開催といえる。

 即ち、同大会の開催にあたり、主に厚生省関連施設において、アーチェリー選手の育成が始まる。ことに、神奈川県小田原市の国立箱根病院療養所では、当時の富田忠良所長の理解も深く、最も盛んにアーチェリーを行い、国際大会出場選手の多くは同療養所入所生であった。

 1964年の東京パラリンピックでは、第二部として国内大会が開催され、全国から13名の出場者があったが、その後目立った活動はなく記録として残っていない。当時、競技種目は30mラウンドという近距離であったために初心者でも参加でき、同大会終了後はアーチェリーを続ける方が少なかったためと思われる。因みに、同大会は翌年(昭和40年)より、一般国体開催県において、全国身体障害者スポーツ大会(通称、身障国体)として毎年開催されることになる。アーチェリー競技種目も30mラウンド行われていたが、昭和54年の宮崎身障国体(第15回)より、FITAハーフラウンドと共に行われるようになる。

 その間、国際大会に目を向けると、ハイデルベルクパラリンピック(昭和47年)では、日本選手団25名中、11名がアーチェリー競技に参加している。同パラリンピックでは、団体競技である車椅子バスケットボールチームが未だ参加しておらず、わが国の障害者スポーツもアーチェリーが多くなされていた。当時、従来からある厚生省関連施設や各身障国体開催県、あるいは和歌山県や兵庫県の新設のリハビリテーション施設においてアーチェリーが盛んに取り入れられ、社会人の身障者もアーチェリーなら自分らにもできると始める方がいて、身障者のアーチェリー選手が急速に増えていた。

 また、この頃、雑誌「アーチェリー」(㈱阪本企画発行)に関する特集記事の頻繁な掲載は、身障者および健常者への大きなニュースとして伝わっている。このような状況の中、関係者の努力のもと、「フェニックス杯全国身障者アーチェリー選手権大会」(通称、フェニックス杯)が昭和48年神奈川県・剣山フィールドアーチェリー場において開催された。第1回大会は30mラウンド種目のみで、関東近県の身障者10名の参加があったが、第2回大会からは、和歌山県・兵庫県ら近畿からの参加もみられ(昭和59年の第13回大会より、FITAラウンドについては全日本アーチェリー連盟公認)、全国からの参加者も年々増加した。昭和60年(第14回)の参加者は108名になった。

 昭和48年、フェニックス杯大会が神奈川県で開催された頃、同大会の実行委員が中心となり、全国組織の設立準備が始まった。昭和51年、日本身体障害者アーチェリー連盟(初代会長 黒川喜寿氏)が設立され、各種事業が行われるようになった。そして、各地のアーチェリーの育成・振興に力を注ぎ、各地のアーチェリー普及もあいまって、関東甲信越東海・近畿・中四国・九州で大会が開催されるようになった。その他の事業として、技術の向上、及び会員相互の親睦と交流を目的とした合宿の実施(東・西の2地区で毎年夏開催)、情報交換誌としての機関誌「アーチェリーなかま」(年1回)及び「会員ニュース」(国内年4回・国外年1回)が発行される。

因みに、昭和61年、当連盟会員は261名、20クラブが登録されている。


【一般とのかかわり】

 身体障害者競技の中で、アーチェリーは健常者と同等に競えるスポーツである。そこで、障害者アーチャーと一般アーチャーとの交流を見ると、前述の国立療養所当時にみられる。

昭和39年夏、90mの射場完成。この頃、わが国のアーチェリー界の草分けである小沼英治氏が月1~2回、入所生の指導に来られたり、全日本の強化合宿が行われている。当時、一般アーチェリー界も創設期であったため、同療養所の射場を間に交流がなされていたようである。リハビリテーション施設や福祉施設の多くは比較的広い敷地を持ち、射場も付設していたので、同一の射場を通して、一般アーチャーとの交流が深められてきたようである。

 障害者の一般大会への参加として、まず国民体育大会があげられる。昭和55年、国民体育大会にアーチェリー競技が正式種目として採用されることになった。これは、障害者自身の大きな目標と励みとなり、各都道府県の予選を通過し、代表選手として同年、3選手が国民体育大会に出場している。昭和60年度までの身障者の参加数は延べ17名になっている。


文献:日本身体障害者アーチェリー連盟 結成10周年記念誌より

(昭和61年9月発行)